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2018.2
節分です。私はもともと千葉の人間なので、節分には豆まき(煎り大豆)程度しかしませんでした。節分には、いつごろからか「恵方巻」がセブンイレブンのコマーシャルとともに有名になってきました。チラッとWikiで調べてみると広島市中区舟入店が「大阪では節分に太巻き寿司を食べる習慣がある」と聞いて、1989年に仕掛けたようです。きっと大阪の人も「聞いたことないなあ・・。」と思ったことでしょう。(笑)1998年から全国展開したようです。古くは土用のうなぎ、バレンタインデーのチョコレート同様の「仕掛け」でした。まあ、ビジネスチャンスを捉えて販売促進すること自体を否定する気もありません。恵方巻にはいろいろとルールもあるようで「節分の夜に、恵方に向かって願い事を思い浮かべながら丸かじりし、言葉を発せずに最後まで一気に食べきると願いがかなう」らしいです。この「恵方」を調べてみると、その年の「歳徳神」のいる方向が「恵方」だそうで、今年は丙方(南南東)です。Wikiによると江戸時代まではその年の「恵方」にある神社へ行くのが「恵方詣り」であったそうです。
明治以降、鉄道網が都市周辺に広がり、遠方にも行くことができるようになりました。これにより遠方の有名社寺への「恵方詣り」は盛り上がりましたが、年ごとに変わる「恵方」では鉄道会社は困るので、大正末期以降、「恵方詣り」よりも「初詣」が正月行事として定着したようです。「初詣」も仕掛けですか??「恵方」って易断の中でけっこうメジャーな概念なんですかね?と、いうのが「高島易断福運本暦」の表紙をめくると2ページ目に「平成30年・年盤座相」があるんですよね。隣のページにいろいろわからない単語で本年(2018年)の解説があります。「暗険殺」と重なるので今年はあまり「恵方」じゃないそうな・・・。人間って占いが好きなんですね。でも、どう考えても「海苔巻き」が厄払いになるのかわかりません。さらに言うと、巻き寿司って、今のように板海苔が普及しないと巻くことができません。
「海苔」を調べてみると702年に執行された大宝律令に海苔が租税の対象として記載されているそうです。しかし、これは天然の海苔で、今で言う佃煮のような状態で食べていたようです。板海苔の発明には面白い理由がありました。江戸時代に5代将軍綱吉が出した生類憐れみの令の影響で浅草近辺の漁業が禁止され、浅草周辺の漁師は故郷を捨てて、船を係留できる川のある大田区大森に移住しました。その大森では川に打った杭に多くの海苔が付くことに気付いた野口六郎左衛門が紙漉きの技術を応用して板海苔を作りました。これに「浅草海苔」という名前を付けたそうです。ただ、大量に生産されるようになったのは第二次大戦後にイギリスの藻類学者が海苔の糸状体を発見し、養殖技術が確立してからでしょう。ですから、「恵方巻」は早くても戦後の風習ということになり、「1990年以降のセブンイレブンの仕掛けにより普及した」のでしょう。たぶんこういう「仕掛け」にはどんどんと大手も参入します。
先日、新宿の有名デパートの地下を歩いていたら「特選海鮮十二単衣巻」というビックリの恵方巻が予約販売されていました。「海鮮十二単衣巻」の説明には「高級素材12種類を1本に閉じ込めた豪華絢爛な恵方巻。幻の魚クエを始め、本マグロ、フグ、蒸しアワビ、生ウニ、車エビ、イクラ、数の子、真鯛、ヒラメ、カニを使用し、さらに黄金に輝く金箔海苔は見た目のインパクトも抜群で、食卓が盛り上がること間違いなし!」だそうですが、この金色に輝く太巻きを咥え「恵方を向いて言葉を発せず最後まで一気に食べきる」ことはたぶん不可能でしょう。途中で呼吸困難になります。最初から包丁で切るつもりで売っているなら、「運を切る」ことになるから非常に縁起の悪い食べ方になると思うんですけどねえ。(笑)まあ、バレンタインデーのチョコが、昔の「恋する乙女の彼氏へのプレゼント」として売れる数よりも、友チョコの方がいっぱい売れることに気付いて、仕掛けの方向を転換したチョコ業界と同じですね。この「特選十二単衣」は1本10800円です。家族4人で恵方巻ルールに則った本数を用意するとと、夕食だけで43200円。年に1回なら良いのかな?(笑)
鹿児島を舞台にした大河ドラマが始まりました。タイトルは「西郷どん」。西郷隆盛が主人公です。すでに鹿児島を離れて30年ほど経過しているので、あまり偉そうなことは言えませんが、私は11年ほど住んでいました。大河ドラマの初回、非常に期待して次男と家内と3人で見ていました。随所に雄大な桜島が映し出され、見事に「観光客誘致ドラマ」です。火山灰が降らなければ鹿児島は最高です。(笑)2回目以降が楽しみな気分でいた ら、次男は終了後「鹿児島弁がわからない」。私も家内も自分では喋れませんが、聞き取りは可能です。もともと薩摩弁は江戸時代に他国の人間が理解できないように人工的に作り出された「方言」であると友人から聞いていました(が、学問的にはそれは違うようです。)。実際に第二次大戦中、ドイツから日本へ寄贈された2隻の潜水艦(U−ボート)に関する情報を乱数表を使った暗号電報で送るべきところ、戦況の悪化により使用困難となりました。その時、使われた「暗号」が「早口の薩摩方言」だったそうです。出港前後に十数回、国際電話で堂々と会話しました。この通話は当然ながら盗聴されましたが、アメリカ海軍情報部は最初全く解読できませんでした。世界中の部族の言語まで調べたあげく、鹿児島県加治木町出身の日系二世により解読されたんだそうです。歴史的事実です。(笑)
関ヶ原の戦いで、敗れた西軍にいた島津義弘は後方へ退却するのではなく、東に向かい敵の陣中を突破し、伊勢街道を進み、船で鹿児島まで奇跡的な生還を遂げます。その後、去年の大河ドラマに出てきた井伊直政の取りなしで本領安堵され、薩摩藩が成立します。微妙に大河ドラマが繋がっています。その島津義弘を祭った徳重神社(伊集院町)まで、市内から往復40キロを徹夜でお参りする行事が妙円寺詣りです。敵中突破の後、230年ぐらい経った時代が今回の大河ドラマです。関ヶ原の戦いのあった1600年ごろの江戸と鹿児島の距離感は大変なモノだったと思います。参勤交代は1635年に徳川家光により制度化されました。当然、距離のある大名の方が経費の負担は大きく、さらに大大名は行列の人数も多く、薩摩藩は77万石になったころには2000人ぐらいの行列だったようです。ルートは初期のころは街道の整備がイマイチだったのか、薩摩川内市から西海ルートで玄界灘、瀬戸内まで船。その後は東海道を陸路。あるいは鹿児島湾奥まで船、そこから陸路で日向まで行き、その後瀬戸内経由で東海道(日向ルート)。
江戸時代後半は街道整備ができたのか、すべて陸路(九州路)になったようです。西海ルートの平均が61日、日向ルートが53日、陸路は57日です。たぶん天候の影響でしょうが、西海ルートは最長161日も掛かった時があり、行程の安定した陸路が選ばれるようになったんでしょう。資料に1854年の28代藩主島津斉彬の実際の例がありました。これは彼の藩主として2回目の参勤交代だそうです。2月18日に出発し、熊本を通過して3月1日に小倉、3月15日に大坂、3月30日に沼津、4月3日に江戸到着です。総距離1469Km、45日の旅です。一日平均32キロですが、最長54キロ歩いた日もあります。斉彬は「西郷どん」でも重要な人物ですが、8年ほど藩主を務め、51歳で死んでしまいます。彼の目指した工業化の名残がガラス工芸(薩摩切子)として復活しました。ちょっと高いけど、お土産にいかがでしょう。 私の中学、高校時代の修学旅行は新幹線で、行き先は京都でした。大学受験で仙台、広島まで私の新幹線網が広がりました。今では稲毛海岸を夕方の4時に乗れば当日中に鹿児島まで新幹線で行くことができます。新大阪ー鹿児島中央が3時間41分!すごいです。その昔、西鹿児島(今は鹿児島中央)駅から東京まで21時間かけて寝台特急「はやぶさ」が走っていました。西鹿児島ー博多間が特急で4時間ほどだったの が、新幹線では最速で1時間17分。東海道新幹線なら東京から浜松ぐらいの時間です。静岡県の女性が都内のデパートに日帰りで買い物するかどうか知りませんが、今、鹿児島の女性は天神(福岡の繁華街)のデパートに行く人 も多いようです。
ほんの40年前、千葉県立佐原高校出身で城北予備校(廃校)で校内模擬試験の時、隣の席だった男が、なんと鹿児島大学歯学部で同級生となりました。クロネコヤマトの宅急便など無い時代、彼は鉄道便で布団を送りました。今は鹿児島中央駅となっていますが、当時、鹿児島の一番中心の駅は「西鹿児島駅」。彼が送ったのは「鹿児島駅」。「駅留め貨物」なので、駅に置いてある荷物を取りに行かなくてはいけません。でも、本当に布団が着いているかを確認するために「鹿児島駅」に電話しました。今はもうほとんど見かけない公衆電話ボックスで3分ほどやりとりをした後、彼は電話ボックスから出てきて「何言ってるか、全くかわからん。代わってくれ。」アメリカ海軍情報部状態です。(笑)私が電話を代わって、話を聞くと、我々の言葉はNHKアナウンサーが使う「日本語」なので、彼ら(高齢の国鉄の貨物担当職員)には伝わっていたようですが、彼らが使う「薩摩弁」が我々の理解を超えているわけです。しかし、しばらく聞いているうちに耳が慣れ、なんとか荷物が届いていることがわかり、後日取りに行くと伝え、電話を切りました。暗号解読!「おまえすごいな!」。彼にほめられました。